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グルダの 作品109 |
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気分がめいった時にはベートーヴェンを聞くと、すっきりとする。ちょっと陳腐な言い方を覚悟で言えば、頑張ろうと言う勇気を与えてくれる。 ベートーヴェンの曲に関してはほとんど無条件派なので曲は何でも良いのだが、こまった事に演奏者が誰でもいいとは限らない。レコード事情にそれほど詳しく ないので、ラジオなどで偶然聞いて気に入った物を買うくらいだ。一昨年ウイーンに言った時に昔からずっとほしかったF・グルダのソナタ全集を見つけて買っ てきた。 昨日はまたこれを聞きたくなって、作品109と110を続けて聞いた。作品111と並んでこの最後の3曲はベートーヴェンの中でも特に好きな曲である。この3曲には首尾一貫して心の葛藤と苦悩、それに対比する天上的美しさとでもいえる、やすらぎに満ちた音楽とが混在している。 グルダの演奏は昔聞いたときはこの人の良さが本当にはわかっていなかったと思う。ウイーンの三羽烏とか言われていたのは覚えているがこの全集を聞いてから 本当に凄い人だと再認識した。音楽を遠くまで見つめて演奏している。と言うか、そういう演奏姿勢みたいな物が僕もわかる様になったという事だが。ベー トーヴェンが描いた遠大なストリュクチュール(形式構成)を始めの一音から感じさせる演奏だ。だからどんなに甘美なパッセージも媚びたり、衒ったりするこ となく全体の構成の中での「ひとつの役わり」として響くし、他のパッセージでも意味もなく深刻ぶったり凶暴になったりしない。それと、そういう演奏姿勢を 確固と維持する驚くべき正確無比な技術がある。たとえば「ハンマークラフィーア」の終楽章のような異常に困難な曲も一体どうやって弾いているのかと思うく らい、危なげない。(もちろんCDと言うことは差し引くべきだが) 巨大な岩壁に取り付いて途方にくれているような演奏をする人(なってしまう人?)を聞かされることがあるが、そういう演 奏は演奏者の困難や達成感ばかり強調されてこの偉大な音楽そのものは不在になってしまう。 作品109はいきなり前置き無しで、アウフタクトから始まる心安らぐ「うた」から始まる。初めて聞く人はたぶんこの「うた」がA-B-Aのような形で繰り 広げられる事を無意識に期待するはずだ。ところがその期待は旋律が高揚し始めて期待を募り始める8小節目であっけなく裏切られる。ここから始まる即興風な ひとくだりは混沌と錯乱とでも表現できる、ベートーヴェンの内面の苦渋と喜びがない交ぜになったような音楽だ。 ベートーヴェンは特に晩年になってこういう即興的要素を含む音楽を盛んに書いている。形式と言ういわば動かしがたい「鋳型」の中に即興と言うアンチポード(対 極)をいかに取り入れられるか。その回答を「ハンマークラフィーア」からの最後の4曲で存分に書いている。ピアノの特性を駆使して即興音楽をソナタに取り 入れた革命的なものだと思う。(こういう例はそれ以前には、バッハのトッカータやモーツアルトの「幻想曲」くらいだろうか)ショパンやリスト、シューマン がすでにそこには聞き取れる。弦楽四重奏でも13、14、15番で同じ試みをしている。交響曲では? もちろん「第九」の終楽章である。 しかし、この即興部分の次にまたあの「うた」が帰ってきたときには「あっ、さっきのはタダの気まぐれだったのか」と思わせるくらい今度は執拗に執拗に歌い込 んでくる。まるでベートーヴェンの「構成力作家」としての面目を挽回しようとしているみたいに。そしてこの「うた」が最高潮に達したその時、またあの混沌 がやって来るのだ。以前のベートーヴェンだったらここは「歓喜」の到達点だ。ところがそれがそうではなく、一回目と同じく少し物悲しくどこか頼りなげな、 自信に満ち溢れているとは言いがたい弱々しい自問自答が始まるのだ。だから今度の即興パッセージはいきなり奈落の底に突き落とされたくらいのショックがあ る。だがその混沌のなんと甘美なことか。 この即興はホ長調(この曲の原調)に終始してからあの「うた」をもう一度美しく繰り広げながら、まるで何事もな かったかのようにひっそりと過ぎ去ってゆく。まだストーリーは半ばだよと言わんばかりの、終わらない「終わり方」で、次のプレスティッシモへと続く。
2010年11月26日 |
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